Thursday, September 27, 2018

日本の夏、マレーシアの夏。




ここは一年中夏で、日本とおなじ夏でも違う夏だ。



なんか言っていることが矛盾しているけど、早い話が、たとえ気温が同じでもここにいて感じる夏と日本にいて感じる夏とでは違いがあるということだ。




日本では、毎年やって来る夏の伝統、歴史から教えられるもの、8月夏休みの宿題やら蚊取り線香のにおい、夜風も入ってこないけど網戸だけで寝る夜、そこから月明かりが見えること、鈴虫が鳴いていること、灼熱のアスファルトと正反対の黒い影。
テレビでやたらと多い怪談話と甲子園、花火、海に行くと浮き立つ友達、地元のお祭り、ジトッとした湿気、お盆、お墓、提灯。


これらを言葉に示すと情緒と言うのだろう。



その場にいると小さい時から生きている風習の中で、暑い夏になると必ず同じようなことを条件反射的に思う。



特に、8月は父の命日も加わった。

亡くなった人のことを思い出したり、死ぬということについて考えるようになる。

眩い青春や若過ぎるゆえに起こる何か不安な気持ちを片隅に、強い日差しのなかに明るく熱いものと、そうでないものが、いっしょに感じられる、しみじみ、でも一瞬で終わってしまう真夏の季節だ。



でももうすぐ10月になろうとしている。
日本の夏は本当に短い。
あっという間に終わってしまう。
ここはまだ夏なのに。

Wednesday, September 19, 2018

マレーシアでは「死」が身近。




ふだん死についてふつうに話すことがない、ということがこれまで日本の風潮にはあったような気がする。

私が日本で生活をしていた頃には、死というのは(もちろん好き!なんて言う人はいなくて)嫌われていて、なんか不吉で、なるべく遠回しに話したり、日常の中から切り離しておくようになっている。

誰もが行きていたら必ず来るべきもので、「生」からは切り離されられないものと、わかっているのに。





でも最近の風潮は、ちょっと変わってきているようだ。

「終活」という言葉が流行ったり、死んだらどのようにしてほしいかきちんと周りに伝えたり、(昔は、まして病人の前では絶対話し合うこともなかったはず)、何歳くらいまで生きるつもりか、それまでに何をしておきたいか、というような話を、多くの人がおこなっているようだ。






ここでは、日本とちょっと違う。

生と死は身近な、当たり前のものとして根付いており、死を怖れすぎない。

こどもの時から日々の生活の中で、他人の「生」と「死」を間近に見て体験する。

犠牲祭では、動物の死を目の当たりにして、その動物をいかにありがたく食べ物として頂戴するかを考える。

そして人間の死後の世界はあるものが前提として信じみんな生きている。


---なので、「死」は必ず悲しみとともに語られるべきものではない。



Friday, August 10, 2018

誰しも年は、どんどんとる。



誰しも年は、どんどんとる。


「若ぶってる」のはいやなので、年相応に年をとりたいという気持ちはある。




私がファンになった頃のポール・ウェラーは27歳だったのに、今年はもう60歳だ。

ポールさんが27歳の時には私はもう少し年下で、27歳というのは随分「大人だなあ」に感じた。

でも今の私が27歳の人を見ると(聞くと)、27歳なんてまだまだ子供だ、って感じがする。


60歳のポールさんは、老けていない。

年相応に顔なんてシワが沢山あるのに老けていない。

年はとるし、若くはなくなるけど、老けない。

これっていいよなー。

何故かというと、「年など考えないで年齢に関係なくやりたい事をやっているから」だとおもう。




そして、こういう人達は、若いということが、そのまま価値だとも思っていない。



こういう風な年のとり方はいいなぁ。




外見について言うと、あんまり補おうとすることはかえって違和感みたいなものありますよね。


Friday, August 03, 2018

猫のツンデレとシンプルさ




これまで雄猫しか飼ったことなかった。


というのも、ここにフラフラ来るのは、盛りのついたオスばかり、もらうのもたまたま雄猫ばかりだったからだ。



今、オスメス両方と一緒に生活を共にするという初めての体験をしていて、感じた事ひとつ。



「オスもメスも基本人間の男、女と同じじゃ〜ん」
(人間の女の子育てたことがないけど、一般論というか、感覚としてね)

オスはなっつったって、一言で表すと「シンプル」。
猫ならではのマイペースさはあるものの、いつでもストレートな感情表現で、友好的な態度で積極的だ。

甘えたいと思ったらすぐに膝に乗ってきたり、直球アピールだ。


そしてとにかく好奇心が強く、そんな気分になったら、危険であろうがコントロールできないような、なりふりかまわずのアクションが、愛くるしい。

筋肉量も多く活発で、成長するにしたがってがっちりしてくる。



メスは、警戒心はもっと強いし、甘えてくることもあるけど、いつもじゃない。なんか遠くからジッと観察されていたり、遠くからアピール信号出してたり、計算高さが見え隠れしている。

人間の女子言葉を発したら、「ふん、なによ!」みたいな。

表面的にはツンツンとした敵対にも取れる態度を見せながら、何かのタイミングでその反対の甘ったれた態度に変わる。

時として母性本能も発揮する。

オスよりも静かな場所を確保して、一人ちょっと考えてみる時間と自身をお手入れする時間と清潔なスペースが欲しい、みたいな、オスと比べるとなんかストレートではない。




ともあれ、両性の性格を観察をするのはとても楽しい。

Sunday, July 29, 2018

心の優しいムスリムと時として不寛容な自分に混乱する頭の中





イスラム国家マレーシア。

中東に勉強と題して帰ってくる頃にはテロに染まってくる者、
人から間違ったイスラムを洗脳される者、

物事というものは、なんにつけ乱用される物で、ネガティブな要素は何処の国でもある。

ましてや過激派組織によるテロが世界各地で起き、イスラムイメージを「テロばかりしている暴力的な宗教」「理解不可能」「厳しい宗教」といったイメージで捉えられてしまうのは仕方がないことかもしれない


でも一方で、多くの人がイスラムに改宗している。
あの有名人が、あのミュージシャンが、とよく聞くではないか。
2050年には世界の3人に1人がムスリムになると予測されている。

そんな「負」ばかりの宗教なら、これほど信者が増え続けるわけがないだろう。



基本的にイスラムそのものの教えは「平和」で、穏やかだ。
道徳や規律が乏しかった大昔、それら教えを人間のモラルとして、そのルールに沿った生活をしていくというのは、もっとも自然だ。

そして、とりわけ人間愛的に言うと、「女性を大切にし、貧しい人、お年寄りなど弱者にとてもやさしい」宗教なので、とくに家族を大切にし、親には最も優しく、その土地に不慣れな旅人にも優しく、恵まれない人にも進んで助けたり、寄付をしたりする。
暖かく、緩やかだ。

もちろん、旅人に親切な人なら世界中のどこにでもいるだろう。
しかしイスラム圏は、親切な人の割合も、親切の度合いも、他とはくらべものにならない、見返りのない優しさが伝わってくる
自分たちが持っているものを分けるだけなのに、自然体だ。


イスラム国でも実際暮らしてみるともちろん
これだからマレー人はさあ、、、」と愚痴の10は出る。

食事だったまとめて沢山作って、おおらかで、のほほんと構えているのを見ると、「こんないっぱい作ってさあ、残って捨てるようになっらたもったいないじゃん、なんでもっと計算して作んないのー?」とか、

クリニックでは先生はちゃんと患者を見てるんだか見て無いんだか、受付の3人の子たちたおしゃべりに夢中で、薬を待っているのに動こうとしない

ゴミ焼却炉の鉄ドア注文を引き取りに行ったらまだできていないし、土曜日と言われて行ったらしまってるし、月曜日に行ったらまだ出来てないし、「土曜日閉めるなら何故電話一本よこさない?」と文句言ったところで何も出てこない。
エトセトラ、エトセトラ。。。

真剣に打ち込んでない、仕事にしろ何にしろ、無駄な時間をヘラヘラしているのが気に触ったり、ダラダラにイライラしたり。

虫の居所が悪い時なんかたまにそんな悪態をわざとつきたがる一方の自分もいたりして、能天気で悪気がない彼らを見て、自分自身で精神的に混乱をくりかえす
  

そので、こんな優しさに出くわすとさらに頭が混乱する。

先日、小さなお店で買い物をしていた。
結果を言ってしまうと、レジでお金が足らなかった。
カンコンとエビ、テンペ、パンを買ったら数リンギ分、ちょうどパンの金額分が足らなくてパンを買わずに戻そうとした。
そうしたら私の次に並んでいる男性がパンの代金分を支払ってくれたのだ

見も知らぬ人にそんな親切にされて
思いは複雑。。。



イスラムの6行のうちに「ザカート(喜捨)」があり、1年に一回一定額を、「恵まれない人に寄付をする」というものがある。
うちの主人も熱心だ。
国のザカート基金では国民から預かったザカートを主に孤児院などに寄付をしている。イスラム教徒の教えでは義務となっており、困った人を助ける義務が常にある。
一方で、自分が裕福になるには、まずは人に与えるべしという「give & get」、貧しい人に差し出すことによって、社会に還流、ゆくゆくには自分にも倍になって戻ってくる事を信じている。

なにはともあれ、 

幼少時から大家族や近所の密接な関わり合いの中で、ギスギスしない人間関係の中で育つうち、「人といるのが楽しい」というあまり気遣いをしない、ゆるい感覚が形成されていくのかもしれない。