Wednesday, February 13, 2019

紙か電子か、そろそろ分析が出ているようです。





電子書籍が登場して随分たった。

当初は紙か電子かで論争があったけど、色々と調査や研究がされてきたようである。
それによると、大きく分けて2つ。

電子書籍リーダーには触覚的不協和が生み出されるとのこと。この感覚は、読書を楽しくないものにさせるだけではなく、不快にさせる可能性すらあるとのこと。全体のどのくらいまで読んだかパラパラとめくって全体像を感じるのと、電子でパーセンテージをチェックするのでは感じ方が違う。

もう一つは、情報として目にするだけならディスプレイでも問題ないが、知識として獲得したいなら紙の本の方が向いているとのこと。


なんかしっくりわかる気がするなー。

Wednesday, January 30, 2019

出る人柄。




いつも私の母が作っているパッチワークをサポートしてくれている女性がいる。
その彼女は「あなたのお母さんのパッチワークには愛を感じる」と言ってくれる。
何がどうで、なんでか理屈は説明できないけど、私は彼女の感じ方がとても理解出来る。
だってそう感じるんだから。
先日、テニスプレーヤーの大阪なおみが優勝して話題になった。
彼女のプレーはもちろんのこと、スピーチを見ただけで、彼女のファンになってしまう人間が多いと思う。
決して得意ではないスピーチ。
でも心の底から気持ちを表していることが伝わってくるのは素直な気持ちを持った人柄だ。
芸術品だけではない、何にでもその人の人柄が現れる。

Tuesday, January 29, 2019

Thinking Under Kuala Lumpur city Centre.



The Nations expectation, be in a group of developed country, be self sufficient industrial nation, malaysia supposed to be into one of the most advanced and beautiful places in the world.

During built this, malaysia had a dream and there is a strong direction. 

The early year 2000 Tun M introduced Wawanan 2020 and Among other things, the ideal called for improvements in all aspects of life, including economic prosperity, social well-being, world-class education and political stability. 
(Even though bad major reforms of religious freedom in behind)


However, after the prime minister was changed, 
It seems that people forget a bigger issues like the philosophical and intellectual development and malaysia have a backward.


When I see this 
national icon, symbol architectureI and Tun M’s legacy, I have mixed feelings while the conditions of the times change.


Thursday, September 27, 2018

日本の夏、マレーシアの夏。




ここは一年中夏で、日本とおなじ夏でも違う夏だ。



なんか言っていることが矛盾しているけど、早い話が、たとえ気温が同じでもここにいて感じる夏と日本にいて感じる夏とでは違いがあるということだ。




日本では、毎年やって来る夏の伝統、歴史から教えられるもの、8月夏休みの宿題やら蚊取り線香のにおい、夜風も入ってこないけど網戸だけで寝る夜、そこから月明かりが見えること、鈴虫が鳴いていること、灼熱のアスファルトと正反対の黒い影。
テレビでやたらと多い怪談話と甲子園、花火、海に行くと浮き立つ友達、地元のお祭り、ジトッとした湿気、お盆、お墓、提灯。


これらを言葉に示すと情緒と言うのだろう。



その場にいると小さい時から生きている風習の中で、暑い夏になると必ず同じようなことを条件反射的に思う。



特に、8月は父の命日も加わった。

亡くなった人のことを思い出したり、死ぬということについて考えるようになる。

眩い青春や若過ぎるゆえに起こる何か不安な気持ちを片隅に、強い日差しのなかに明るく熱いものと、そうでないものが、いっしょに感じられる、しみじみ、でも一瞬で終わってしまう真夏の季節だ。



でももうすぐ10月になろうとしている。
日本の夏は本当に短い。
あっという間に終わってしまう。
ここはまだ夏なのに。

Wednesday, September 19, 2018

マレーシアでは「死」が身近。




ふだん死についてふつうに話すことがない、ということがこれまで日本の風潮にはあったような気がする。

私が日本で生活をしていた頃には、死というのは(もちろん好き!なんて言う人はいなくて)嫌われていて、なんか不吉で、なるべく遠回しに話したり、日常の中から切り離しておくようになっている。

誰もが行きていたら必ず来るべきもので、「生」からは切り離されられないものと、わかっているのに。





でも最近の風潮は、ちょっと変わってきているようだ。

「終活」という言葉が流行ったり、死んだらどのようにしてほしいかきちんと周りに伝えたり、(昔は、まして病人の前では絶対話し合うこともなかったはず)、何歳くらいまで生きるつもりか、それまでに何をしておきたいか、というような話を、多くの人がおこなっているようだ。






ここでは、日本とちょっと違う。

生と死は身近な、当たり前のものとして根付いており、死を怖れすぎない。

こどもの時から日々の生活の中で、他人の「生」と「死」を間近に見て体験する。

犠牲祭では、動物の死を目の当たりにして、その動物をいかにありがたく食べ物として頂戴するかを考える。

そして人間の死後の世界はあるものが前提として信じみんな生きている。


---なので、「死」は必ず悲しみとともに語られるべきものではない。