Thursday, March 08, 2018

読書感想「ガウディの伝言 」



「ガウディの伝言」


−−− 今日という日を最大限に生きて、その上に明日という日がやってくる。それを毎日コツコツと積み重ね、それによって自分達も満たされていく。
時間というのはもともと無限にあるもので、その中の一瞬に過ぎない人生を生きている我々にとって自分よりはるかに長い年月を生きる他の中に自分を見るということ。
またそれによって永遠に続いていくものに心で連なっていくということ。
それはとても豊かなことであるように思える。
心の時間というのは一人一人に与えられているもので、自分の目の前にあるものを、それを夢見て作り続けていくという人間の営み自体に本当の価値がある。
目に見えている自然の向こうにある変わらないもの。
人間の社会や歴史の向こうにある大切で変わらないもの。
数えきれない人々が地球の表面に生まれ、自然から恵みを与えられて生き、働き、子を産み育て、ものを作り、街を大きくし、戦争で破壊し、また新たに街を作り、希望と絶望を繰り返しながら、絶え間ない変化を繰り返してきた。その向こうにある本当に変わらない真実をガウディは探していたのだと思う。−−−


以上は、ガウディ建築(彫刻)に携わった唯一の外国人、日本人の外尾氏の言葉だ。

「デザインが奇抜で、見てみたい場所のひとつとして」、当初はそんな単純な発想だった。

私の場合、どこかへ行く場合は結構念入りに勉強をして行くタチなので、今回も、ガウディ自身のもっと奥深い本がないものか、探していたらこの本に出会った。


人間の一生と言うのは、長くして実際過ぎてみると短いものだと思うが、この独りの人間が情熱を注ぎ何十年も一生を捧げるようなプロジェクトを持てるというのは本当に稀にないといっていいほど豊かな人生だと思う。

人というのは、世俗的過ぎる環境にいない限り、例えばマレーシアが宗教を重んじている国のように、宗教をライフの一部として大切にしている人達にとっては、晩年になってくるにしたがって、自分の信仰により敬虔深く、そして自分の富よりも世に貢献したい何かを求める傾向が強く出てくると思う。それも自然に。
ガウディの生きた当時は、もちろん現代のように色々な物にはめぐまれていなかったし、ここの場合でのキリスト教は生活、人生の中の最も重要な一部として一人一人の心の中にある灯火だったと想像できる。

「単なる奇抜なアイデア」、「なんだかすごいの作った人」、という知識しかなかった私はこの本を読んでかなり感銘を受けたし、実際現地で実物を見る前に読んで本当に良かったとこころから思っている。

私の知らなかった事、ひとつ。
ガウディは、このサクラダファミリアを建築するにあたって、はじめから自分の生きている間に終わる計画ではなくて、自分が亡くなった後、後継者によって受け継がれる大スケールの教会であるという事を前提にして取りかかり、その名の通り、残りの人生をささげ、この場所で寝起きし、この場所で亡くなった。

自分がこころから愛するものを作っていて、その達成を見ないで死ぬ?
後継者(それも、結婚していないので身内ではない)が跡を継いでいく事に信用をしている?

私は、「そんなことが考えられるものなのか」、とそればかりが頭の中で渦を巻いていた。

本当に人間を幸せにするものを、そしてその最高のものを神にささげようとしていた総合芸術。
完成までに何百年かかろうとも、それも毎日少しづつ作り続けて行くほど人間にとって夢のあることはないだろう。


線が緩やかで、ユニークな飾りが沢山施されているからか、巨大な意思のある生き物みたいで何処から見ても迫力がある。
壮大で異様で、圧倒され、言葉で言い尽くせるものではない。
中に入ってみると、石の中なのでひんやりとしているが、木漏れ日が射す森のような光。 音楽なんてないのに、自然と楽器が奏でているような耳の幻聴がある。そしてキリスト教の教え親子の無慈愛。光あふれる、生き生きと暖かみが溢れているのをこの中で感じとる事が出来る。

外尾氏が「彫っている時は石と時空を浮遊しているような感覚」と言われているが、それはとっても理解できる。

ガウディ生前の、長い歳月での苦労や変革の経過、そして多くの人が持つ構想への情熱。 
自然をたくみに取り込んで、楽器にもなりうる電気や光の仕掛け。
テクニカルな部分においても石の積み上げるこの構造自体の難しさ、機能と象徴を組み合わせて両方を同時に解決する構造、過剰なまでのそして細かい表現や、刻まれた聖書の物語。

「人間がどれほど科学を発展させ、高度な物を作れるようになっても、その材料は常に自然から発見し、もらっているものだ。植物や鉱物はもちろん、水や空気や光や様々なエネルギーもすべて、人間が無からつくりだせるものではない。
それが出来るのは創造主である神だけである。
自然には、無駄のない関連性が存在しており、他のあるものを存在させるのに役だっている。その関係が巡り回って、結局は自らも存在させている。
そして目に見えている自然の向こうに目に見えない秩序を読み取り、それを建物の構造に活かそうとしていた。」

自然を言語で捉え、理論や公式を打ち立てて行こうとするのが科学者なら、自然を直感的にとらえ、自分の手を信じて、とりあえず物を作ってみようとするのが職人の精神だ。その中で多くの失敗から学んで行く。

その当時使っていなかったもの、その当時ではまだ考えられなかったものまでを、何十年後には、それが普通に利用が可能になると信じて、見越して、自分が出来る最大限の準備をして託していた。



ここにいると絶対何度も訪れたくなる。


私達は、時間がある限り何回か訪れてみた。夜のライトアップも見に行った。ライトアップされている様子は光の殿堂で、やはりそれはそれで暖かみがある。


ガウディの総合芸術をみていると、「人間の幸せとは何だろう」と言う事も考えざるなってくる。
そのひとつには、どれだけ何かを愛し、その自分でないもののために生きられるかと言う事があると思う。
自分というものは、他があって初めて存在するものだ。
その他を利用して、自分の名誉や財産のためだけに生きようとする人は、何処まで行っても満たされず、精神的にやせ細って行く。私は、身近に層感じる物事を沢山見てきたように思う。
そうではなく、他のために生き(他の役に立ち)、それによって自分も満たされるということ。その関係の中にこそ、人間が求めるべき幸せがあるような気がする。
また、幸せと言うものは、現在どれだけの物をもっているかということより、未来にどれだけの希望があるかと言う事にかかっているのだとも思う。



Carpe diem   今日を生きる。

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