出来事は事実のみ。できるだけ厳しい環境に身を置くことで、「自分は自分、ヒトはヒト」ときちんと意識を明確にする事もできる。そうしていく事によってプラス思考に持って行き、物事のポジティブな面をより多く見られるようになれば、人生はより楽しいものになると思う。
特に外国人が海外で生きる根本そのものが全然「安定」も「保証」もされていない。そのような中で自力で生きていくには、多かれ少なかれ自分が何を提供できるか、どんなスキルを持っているかがすべてだ。
出来事は事実のみ。できるだけ厳しい環境に身を置くことで、「自分は自分、ヒトはヒト」ときちんと意識を明確にする事もできる。そうしていく事によってプラス思考に持って行き、物事のポジティブな面をより多く見られるようになれば、人生はより楽しいものになると思う。
特に外国人が海外で生きる根本そのものが全然「安定」も「保証」もされていない。そのような中で自力で生きていくには、多かれ少なかれ自分が何を提供できるか、どんなスキルを持っているかがすべてだ。
いざ話そうとするとたどたどしい言葉しか出てこないというのは私の場合結構あって、非常にもどかしい状況によくぶちあたる。
すらすらと淀みなく話す人を見ると、とても羨ましくなってしまう。
「脳は曖昧な抽象概念を許容していて、文章だとそうはいかないから」とわかっていても、私の場合抽象概念がもっと渦巻いているかも?
書く行為そのものは、自分の気持ちを綴ることは、人目に触れないところで(またはブログなど人目に触れるものも含めて)心を癒すという意味になっていると思う。
以前は、つらい時を乗り切る時にも文章を書いていた。
悲しいことについて自分の考えや感じたことを文章にすると、気持ちが整理できて「次のステップへポジティブに向かう」という感情に与えるメリットが大きかったように思う。
将来の目標や夢の達成について文章を書くと、幸福度や健康度が向上する、ストレスレベルの軽減といった効果があると心理学の研究でも明らかになっている通りだ。
自分の文章のテーマになるような事柄を身につけることを日々意識するようになることは、自分のためにもなる。
良いアイデアを集めたり、より深い思考につながったり。
そして特定のトピックについて書き続けると、それまで考えていたことをもとに理論を構築できるようになる。
さらに、困難に直面したとしても、ネガティブな意見に動じない強い心を持つことができるようになる。
ばたばたと長男の結婚式の準備に追われ、終ってからまたまた子供達はバタバタとせわしなく帰って行った。
2人ともこれでまたしばらく自分達の生活にフォーカスするためにしばらくは帰ってこないだろうと思うと、主人ともにちょっとした虚脱感を味わう。
私達もまだ毎日忙しく動き回っているので、単なるちっぽけな虚脱だけど。
長男は1週間前に日本に帰り仕事も再開し、雑用をこなし、新しい家庭という場所を懸命に作っている。
これからは一人ではない。
2人だからがんばれるという団結感を身をもって感じることだろう。
次男も乗り継ぎ乗り継ぎで52時間の末、やっとモントリオールに到着した。
(若いという事はすごい体力だ)モントリオールは、バンクーバーとはうってかわって北米のパリだ。
ほとんどフランス語ができないと難しいくらいフランス化している環境に、彼は自らチャレンジしようとしている。
どんな場所にいるのか、ネットで検索するだけでも楽しいし、私たちは今度いつ行こうか思いをはせる。
さて、それぞれに新しい土地で、頑張りたりという意志は尊重したい。
これでみんな完全に独立して落ち着いたと、私たちは気持ち的にも嬉しい。
ここ一週間ほど少しずつ、掃除や修理、メンテナンスをやってきて、今日からkepyokではまたゲストを迎える。
こうしてだんだんと仕事モードに入って行くわけだが、10月末には大きな仕事が入っているので、体調崩さずその日に備えたいと思う。
久しぶりにプールで泳ぎ、(本当に何ヶ月ぶりだろう)また自由の時間には本を読んだり絵を描いたりできる日常の生活の楽しみが戻りつつある。