Monday, March 24, 2014

Humble, humility which Japanese have and tolerance, soft-hearted which Malaysian have





マレーシアは、思いやりと寛容のある国だと思う。
バックの土壌に、何がその寛容性を作り上げているのだろう。


 
たとえば、日本では駅でお年寄りが大きなトランクを引きずり階段を四苦八苦して上っているところを、あまり一般人が手助けをしないとよく聞く。
た驚く事に、車椅子の人やベビーカーで混んでいる電車に乗ってきた人がいたら、あからさまに嫌な顔をする人が少なくない。

ここでは、一斉に数人が「手伝いましょうか?」と自ら喜んで(いるように見える)運んでくれる。別に大げさなことではなく 当たり前のことと考えている。

ただし単純に「日本人には思いやりがない」というものでもあるまい。日本人とは「誠実で、人に施し、平和を好み、公共心に富み、汚いことを嫌う」と称揚している。

また昔から日本には「清き明き心」を何よりも大切にする伝統がある。謙虚・謙譲・謙遜といった価値観美徳と言ってよいものだ。





おそらく私的分析では一言でいえば、余裕と多様性ではないだろうか。民族の多様性、宗教の多様性、言葉や文化の多様性などなど。

人間の思想や行動はその人の環境の産物だ。国民性や文化も、長い歴史をかけて環境に適応するかたちで醸成されてきたものなのDNAにしみ込んでいると言っていいと思う。

日本のように一民族国民の国では少数派としての経験をしたことのある人が少な少数派に入る事は居心地がいいものでなく、弾圧を受ける事になる。異質なものに対して不寛容になりがちなのは、こういったことに理由があるのかもしれな

ここマレーシアでは、他人の意見は自分と異なっていても尊重するという人が多数だ。



 また日本の首都圏は心や時間に余裕を持てない場所だ。満員の通勤電車や労働時間、過労死。ここで過労死の話をしたらとても驚かれる。
なんのために死ぬほどに働くのか」と。

「死ぬほど」という言葉の意味そのものが理解できないかもしれない。

あとは、多くの社会において男女比率が同等となれば、意見の多様性も高まり、結果としてより他者に対して寛容なものの考え方が浸透していくのではないだろうか。


No comments: